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小諸城の起こりは、長享元年(1487)に信濃守護小笠原氏の流れをくむ大井光忠が、現在の大手門の北側に気付いた真鍋城であると言われている。
天文二十三年(1554)佐久地方を制圧した武田晴信(のちの信玄)が小諸城を拡張整備し、天正十九年(1591)に小諸城に入った仙石秀久による大改造を経て、現在の姿の小諸城が出来上がった。
元禄十五年(1702)、越後より牧野康重が入り明治維新を迎えるまで居城としていたが、維新後は廃城処分となる。
荒廃していく小諸城を憂いた旧小諸藩士達は資金を集めて小諸城を払い受け、本丸跡に神社を祀り、花木を植えて公園にし懐古園と命名した。
大正十二年(1923)、東宮殿下(のちの昭和天皇)が行啓され、懐古園の名が全国に知れ渡るようになると、大正十五年(1926)に当時の小諸町長であった隈部親信氏が本多静六博士に公園設計を依頼。これにより懐古園は近代的な市民公園に生まれ変わった。 |